<安っぽい「わが人生哲学」>のページです

 

 

◎法語一献 浄土真宗・Mido sanより

本願寺津村別院大阪教区教務所発行の12月号より転載させていただきました。

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◎花子とアンより 主役のこんな言葉が心に残る

 人生は曲がり角の連続だ。その曲がり角の先は、曲がってみないと何があるかわからない。

 しかし、それは、きっと<一番良いもの>が待っている。

 このように考えて、人生を送ることができれば本当に幸せだろうな。

◎「終活」とんでもない 200歳まで頑張るゾ!

 いろんな人の通夜、告別式に参列するが、ずいぶん以前から、これらが本当に形式的・形骸化してしまっている。本当に、故人の死を悼み、悲しみ、つらく感じる、そのような人だけに参列してもらう方が良い。だから、夫婦、親子、孫、兄弟くらいのいわゆる<家族葬>良いのではないか。

 葬儀屋さんに踊らされ、お寺さんに気を使う、世間に見栄を張る。それよりも残された者の気が済むような葬儀が必要なのではないだろうか。

 

◎サンケイ 2014-6-22 オピニオン

◎はな(桜)に嵐  2014-4-7 しみじみ思う

◎生者必滅会者定離 悟る自信はない

人間年老いて体も不自由になってくると“早くお迎えが来て欲しい”という言葉をよく耳にする。

 昔、ある僧の「年をとってくればくるほど<生>に対する執着は強くなる」という言葉が深く脳裏に焼きついている。

 本当に早く死にたい、なんて考えるようになるのだろうか。<死>に対する恐怖心はなくなるのだろうか。

 この恐怖から逃れるために、宗教というものにすがるようになったのではないのだろうか。

 いろんな宗教は人間は、<死>にどのように向かえば良いのか回答を出しているのか。

 

 

 

◎次の考え方には大いに共鳴する  「されど希望が持てない」とあきらめざるを得ないこの現実

 東大へ行くには、「子供の能力・努力」「親の経済力」 これがなければ叶わない、というのも事実だ。評論家、政治家、教育者が如何に<正論>を闘わせてもこの傾向はますます固定化していく、いや、既にしてしまっている。

 「少なくとも<希望>の較差は世の中のせいではありません」これすら否定せざるを得ない日本になってしまっているように思えてならない。残念ながら。

 

               ダスキン提供
               ダスキン提供

 

 

 

◎浄土真宗 蓮如上人の著「白骨章」

 されば 朝(あした)には紅顔ありて 夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり

 

まさに、人生とははかないものです。心の安寧を何に求めればいいのか。そこに宗教というものがあるのか。残念ながら、それを悟ることは未だ叶わない。

 

 

◎八正道とは

仏教を一貫する実践の徳目。八聖道とも書く。以下に記す8種の道をつねに守り行うことによって、悟りが得られ、理想の境地であるニルバーナ(涅槃(ねはん))に到達されると説く。

欲楽の生活は「苦」を招き、禁欲の苦行も理想を達成する道ではない。釈尊は、この両極を離れた中道こそ道諦としての真理であると説かれます。この中道の人格完成のための実践方法を八正道と言います。
1)正見
正しい見解・正しい見方をすることです。人は時に我見・偏見に囚われて邪見に陥り、白いものを白と言わずして黒と言い、邪であるものを邪であると言わずして正しいと言い、道理ならざるものを非道理と言わずして道理であると言います。自分の都合によって一切の事象をありのままに見ずして、迷い・悪業の源と為します。これ即ち、正しい世界観・人生観を確立すべき智慧の欠如によるものと言えましょう。この智慧を確立しない凡夫の状態においてこれを得るには、仏教の正しい信仰を必要とします。一切の正しき智慧を得た釈尊の教えを信じて、日常の生活に活かすことが大事です。そして、釈尊の説く智慧、世界観・人生観が正しいかどうかを自らの人生において体験し確立していくことによって、自分自身の智慧として発展させていくことが出来るのです。
2)正思 
正しい思惟であり、正しく考え正しい心構えを保つことです。自分の立場、自分を取り巻く環境を良く把握し、目的を達成するためには何が必要であるかを思惟する時、邪なことを考えず、思うまじきことを思わず、常に善を求めなければなりません。自分がどの様な立場にあっても、怒り・憎しみ・欲望の心を起こさず、柔和・慈悲・誠実以て、清浄な心に努めることが大事です。善き結果を得るためには、正しき智慧の基に善き考えを静慮する以外にありません。 

3)正語
正しき言葉を使うことです。正しき見方をし、正しく考えるならば自ずと正しい言葉となる筈です。人はとかく他人の悪口を言いたがり、二枚舌を使って要領よく振る舞ったり、あらぬことを真実のように語ったり、くだらぬことを付け加えたりします。仏教では、これを悪口・両舌・妄語・綺語として強く嫌います。多くの人は、いい加減な世論や人の噂に動かされてしまい、協調共存の道を失わんとします。人間関係や社会の幸福を願うのならば、社会の秩序を乱す無責任な言を弄することは厳に慎まねばなりません。正語を以て正義を唱えていかねばなりません。
4)正業 
正しき行為です。善からぬ行為は善からぬ結果を生じ、それが為に苦しみ藻掻き、また善からぬ事を繰り返します。殺生や偸盗(ぬすみ)・邪淫等、自らの生涯を餓鬼・畜生・地獄の輪廻世界に陥れるだけでなく、社会に不幸を撒き散らすものでありましょう。善からぬ行為は、例え如何なる権威によっても、如何なる利益を以て誘惑されようとも為すべきではありません。そうした悪縁には近寄らずとの決心を大事にして、正しき行為に精進しなければ、人格の完成など到底無理な話でありましょう。
5)正命
正しき生活です。正語・正業を以て生活することは言うまでもなく、規則正しい生活によって健全な心身を養い、仕事や責任を能率良くこなす事も含まれます。また人は、衣食住のために往々として正からぬ手段を取ろうとします。どんな境地に立たされようとも、決して自らの人格を冒涜するようなことは為すべきではありません。また僧侶等に説く五種邪命には、一)仏の教えに背き、奇異の相を現じて己を敬わし、利養を貪ること、二)種々の巧みな言葉・弁舌を以て自らを誇張し、人々に敬いの心を起こさしめ、利養を貪ること、三)人相や日時・方角によって徒に人心を惑わし、吉凶を占い利養を貪ること、四)大言壮語し大衆を偽り、威儀を示し、畏敬せしめて利養を貪ること、五)巧みに種々の利益を説き、人心を煽動して利養を貪ること等が上げられています。

6)正精進(正勤)
正しき努力と、勇気です。人類の理想達成のためになることを善、それを妨げるものを悪とします。仏教では四正勤として、一)すでに起こっている悪を断つ努力、二)未だ生じていない悪は、起こさない努力、三)未だ生じていない善は、これを起こす努力、四)すでに生じさせている善は、これを増大せしめる努力を説いています。仏道の修行に努めることは、ひとえに己のためならず、社会全体のために極めて必要なことです。
7)正念
正しき憶念です。人は善なること、真なることは忘れ、忘れても良いようなことは忘れず、聞くまじきことはいつまでも憶念するものです。常に自分の置かれた立場と、それを取り巻く環境を正しく知り、留意しすることであり、そして言うべきこと・言わぬべきこと、聞くべきこと・聞かぬべきこと、意識すべきこと・意識すべきではないことを念頭に置くことが大事です。自らの意識を反省し、どうあるべきかを自覚し、自らの心を統率して責任ある行動に結びつけねばなりません。
8)正定
正しき禅定であり、静慮にして精神を統一することです。人の心は外界の悪縁に、動揺し悩乱されやすいものです。如何なる誘惑にも、如何なる脅威にも、惑わされることなく心を集中して、これを防がなければけっして正しき智慧、覚りというものは得られないでありましょう。また日常の生活の中にあっても、私たちは常に取捨選択の判断を迫られています。欲情に、或いは恐怖・不安・焦りに乱されてすぐさま行為に及ぶのではなく、その一瞬一瞬にも何事にも妨げられない心の状態を得るよう努めることが大事でありましょう。                       

 

 

 

 

◎老後を考える

機械は古くなれば部品の交換で寿命が延ばせる。しかし、人間の身体はそれができない。如何に医学が進み、寿命が延びてもやはり限度がある。100歳以上の人が増えているといっても、やはり限度はある。四苦八苦の四苦とはをいうらしい。生きていくこと自体が「苦」ということがそろそろ分かってくる年になってきたが、老後(既に?)を考えると何か心の安らぎを求めざるをえない。

 

 

 

◎人生は<自然体>で

 来月で70歳になる。secondライフなのかlastライフなのか人それぞれで違う。

 男性80歳弱、女性は85歳 これが日本の平均寿命。平均余命でいうと男性は84歳、88歳くらいになるらしい。

 いずれにしても「あと何年」なんて言われると寂しい。生者必滅会者定離。誰もが死から逃れることは出来ない。しかし、そんなことを考えながら毎日を過ごすことなどあり得ない。『元気なうちに好きなこともしたい、旅行もしたい、、、、、。そういうことを出来るのもせいぜいあと5~6年しかない、、、、』そうかも知れないが、私は、毎日をごく自然に生き、なるがままの人生を送る、すなわち<自然体>で生きたい。人生を何も急ぐことはない。あわてることもない。日々精一杯自由に、好きなことをして過ごせばいい。

 将来、認知症にならないように、寝たきりにならないように、ガンにならないように、そのように願っても誰もそれを保証してはくれない。金持ちも貧乏人も、こと寿命は「平等」だ。

 

◎親鸞について  そして『死』について

 宗教というものが人間にとってなぜ必要となったのか。なぜ宗教が生まれたのか。

キリスト教、イスラム教、仏教。この三大宗教の教えの違いは何か。

 私は「死」に対する恐怖 これがすべてだと思う。人間は死について考えれば考えるほど悩み、苦しみ、心の葛藤と闘って、誰かに、何かに救いを求めたのではないだろうか。凡人は、どれほど多くの人の話を聞いても、説教を聞いても「正解」を得ることは出来ない。所詮は宗教によって救われることは難しい。

 昔、中学の先生でもあった僧から「年を取って“早くお迎えが来て欲しい”なんていう人がいるが、絶対にそれは本心ではない。年をとれば取るほど『生』に対する執着は強くなる」と聞いたことがある。私はそれが本当だと思う。

 親族の葬儀、法事で僧から多くのお経を聞き、法話を聞いても理解することはできない。悟ることなんて絶対にできそうにない。

 死刑囚に教誨師がどのようなことを話すのだろうか。<死に対する恐怖心を取り払う>のが目的なのか、あるいは<自分の犯した罪の深さを悔い改めさせる>のが目的なのか。 死刑囚は、その執行のとき何を思うのだろうか。

 親鸞の、ただ<南無阿弥陀仏>を唱えるだけで、死に対する恐怖から逃れることができるのだろうか。 凡人だからできないのだろうか。

(2011--5-4朝日新聞より)

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◎どうする!日本を 

 あの地獄絵を見るような連日のテレビ報道から、先行きが全く見えない原発事故、全くホームページに向かう気力もなくなった感じだ。復興に向かって全国民が頑張っているが、気が遠くなりそうだ。

 このような時に「政治」がみえてこない。政治家はみな現在何をしているのか。国民の不幸だ。非常事態宣言でも発したら、と思うくらいだ。

 誰が日本を立て直すのだ。百の言葉より一つの実行だ。学者、各種評論家的な人もあまり何も言わないほうが良いのではないか。国民が一丸となって<司令塔>をつくるべきだ。

 報道機関が率先して風評被害をバラまいている。「放射線量は、、、、、だが、食べても大丈夫だ」と声を大にして言わないのか。

 相も変わらず「買い占め」的なことが多いようだ。世界の大都市・東京も脆弱なものだ。所詮日本も二流、三流国だ。

 

◎大学入試カンニング事件について

各種報道で、若者が如何に携帯電話を駆使しているのか驚くばかりだ。

当然今回のような行為を弁護、容認する人はいない。

二三日前、テレビで元官僚で現在某私立大学教授なるひとがコメントしていた。

「こんなことをしてまで入学して何になるのか」

ごもっともなご意見です。反論するつもりは全くありません。しかし、大学教授なら、もう少し他の言葉があってもいいのではないでしょうか。

日本社会は、有名大学に入学するために、ひたすら小学校から中学、高校と親子、家族そろって猛進している。そのため如何に学校教育が歪められているか、ということは多数の国民、教育者、政治家が認めているはずだ。

如何なる手段を弄しても<入学>さえすれば、『人生の勝者、勝ち組』となる確率が非常に高い、というのが現実だ。教育制度の根本的改革が絶対必要だ。

 

 

 

◎回復見込めぬ重症の子「治療中止も」(2011-2-22朝日新聞)

記事の最後にあるが<死生観>は様々。最後は各個人が判断するしかない。こんな判断を迫られたら、、、、。誰だって簡単に答えが出せるはずがない。

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◎国民性

テレビで誰かがしゃべっているのを聞いた。

ドイツ人は走る前に考える イギリス人は走りながら考える イタリア人は走った後にも考えない 日本人はみんなと一緒に走る さらに現代人(日本人)は走る前に会議を開く

 

 

◎無縁社会とは   NHKの番組から

 最近この言葉が多く使われる。先日、NHKで二日つづきで特集番組を放送していた。

 二日目は、各界からいろいろな立場、職業、無職(求職中)の人たちによる討論番組。いかにもNHKらしい番組。もっとも民放ではつまらない評論家、コラムニスト、弁護士、お笑いのタレントばかりでワンパターンの番組しかつくれない。

 私はいつも思う。国会から各種討論会にいたるまで、日本人ってどうして“議論・討論・話し合い”が下手、未熟なんだろうと。ただ、ひたすら持論を強調するだけ、言いぱなっしで、そこから何の建設的なものも生まれてこない。

 NHKは正常なかたちで働く場所を持たない人が多い(失業者、非正規労働者の増加)という状況から無縁社会を捉えようとしていた。就職できないから、結婚できないから、両親の介護をしなければならないから、、、、。経済人は「技能を取得せよとか経験者を求めている」経営者の立場で、NPOの代表者は現実の暗い部分を強調する立場で、女性は女性本位で、若者はやたらツイッターネット、ケイタイで世の中が連帯しているとIT頼り、求職者は何十ヶ所面接を受けても採用されないと訴える。それらの議論を聞いたあとには、ただ空しさだけが残る。

 地域でも無縁が大きな問題として取り上げられている。私は暴論といわれるかも知れないが、無縁になる側により多くの原因があると思う。自ら社会と接触することを避けているケースが多い思う。近所づきあいを好まない。若いうちは、それでもよいかも知れない。しかし、その人たちがある年齢になって無縁を訴えるケースがいかに多いことか。

 テレビのサザエさんを視ていると、近所の人同士が囲碁をしているシーンがよくある。最近は地域で友達の家で囲碁をするというようなことはあまり聞かない。自分の家に他人を入れることを好まない。プライバシーが最も大切な時代だからこれも致し方がないかも知れない。

 思うことをそこそこ書こうと思えばスペースが足りない。

 

 

◎人は生きてきたように死んでいきます

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ホスピスとは

 

 

◎宗教教育 もっと身近に

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宗教とは? 信心とは? 例えば「南無阿弥陀仏」を唱えていれば、ただそれだけでいいのか 。人はある種の悟りに達することができるのだろうか。

 

 

◎私は親鸞に非常に関心があります。2011-2-10朝日新聞より。

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◎私は「死刑廃止論者」です。百人よれば百の意見があり、犯罪をはたらけばその罰を受けるのは当然である。ましてや極悪な罪を犯せば、誰でもが<死刑にしてやりたい>と思うのは当たり前です。しかし、敢えて廃止を言うのは「どんな極悪人でも死ぬときは(死刑執行)悪人ではない」と思うからです。法律のもととはいえ、国家権力の名のもとに<一人の人間>を殺すことになる、という考え方です。次のファイルは2011-2-11の朝日新聞の記事ですが、死刑囚といえども、いかに極悪非道なことをしたものでも、正常な精神状態でいられることはない、と強く感じます。

  

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